おせち料理を夜遅くまで作っていた実家の母。昭和の懐かしいお正月の風景

女児上手
57歳の女性です。私の実家は食糧品の卸問屋をしていました。そのせいもあり、年始には新年の挨拶の方々が夜まで途絶えることはありませんでした。2キロほど離れた所に大きな神社があり、初詣帰りの知り合いも沢山きていました。

実家のお正月は5~60人の来客。いつしかおせち作りを手伝うように

私が小学生の頃ですので、かれこれ50年近く前のことです。今でも何故あんなに人が来ていたのか不思議なくらいです。多分父の交友の広さだったんだなと思います。普通の家庭では考えられない、1日に5〜60人は来ていました。その両親も今は亡くなってしまいました。父が亡くなり、丁度一年後に母を迎えに来ました。

当時、母は前日からおせち料理の準備で大変でした。年末ギリギリまで仕事をして、年越し蕎麦も社員の皆さんと事務所で食べる程でした。昭和の時代の懐かしい賑やかな風景です。それでも母は仕事が終わった後、夜遅くまでおせち料理の準備をしていました。

年末になるとその姿を懐かしく思い出します。そんな環境のため、いつの日からかおせち料理の手伝いを始めた私は、自然と料理が好きになりました。小学校の頃から、割と易しい寒天や淡雪は私の担当でした。皆さんが「あらー上手ね!」と食べてくださるのがとても嬉しかったです。

離島出身の母は、鯛や鰤もさばいてお刺身にしていました。重箱の中は殆ど手作りで、挨拶に来られた方は皆さんが食事もなさるので、タライ並みの大きな鍋にお雑煮を炊いてました。「お正月は奥さんのお雑煮を食べないと始まりません」と言ってくださる方々に母も作り甲斐があったと思います。

結婚した今もおせちは手作り。母に教わったきんとんや龍眼は家族も好物

数年後、私が中学になるころ兄が結婚しました。それを機会に郊外に引っ越した両親も年々年をとり、お客さんは減りましたが、やはり皆さんがいらしてくださるので、おせちの準備はしていました。私も頑張って母の手伝いをしていました。

やがて私も結婚しましたが、やはりおせち料理は手作りです。きんとんや、龍眼や母が教えてくれたおせち料理は主人も子供達も大好きです。主人の田舎にも持っていきます。おせち料理の思い出は、若かりし両親の懐かしい温かい姿です。私はサラリーマンに嫁ぎましたが、両親亡き今も実家の商売を手伝いに行っています。

ひょんな事から、年配の方が総菜店をしていた店を、社員ごと引き受ける事になりました。全く問屋の商売とは無関係でしたが、その部署で何とおせちの一つである、寒天を作るようになりました。現在はどうにか軌道に乗っています。

今その仕事を手伝いながら、子供の頃から手伝っていたおせちに縁があった事、両親が盛り上げてくれた会社を潰さないように、ずっと継承していきたいと思っています。働く場所を作ってくれた両親に感謝しています。

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